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アメリカ宗教事情

英語の記事を訳しています

ラインホールド・ニーバー、ワシントンお気に入りの神学者

以下はジーン・ズボヴィッチ(Gene Zubovich)の2017年4月25日に投稿された英文記事の翻訳です。

 

ラインホールド・ニーバーはみんなのお気に入りの神学者のようである。2007年、当時大統領候補だったバラク・オバマはデイビッド・ブルックスにニーバーは彼の「お気に入りの哲学者」の一人だと語っている。オバマは言う。「世界には深刻な悪と苦難と痛み」がある。「これらを全て取り除くことができると傲慢な考えを持ってはならない。だからと言って、それをシニシズムや行動を起こさない言い訳にするべきではない。」

ジミー・カーター大統領は「ニーバーの教えはいつも私の心の中にあった。大統領になって、この世界を崩壊させるだろう核戦争の脅威に絶えず直面していた際など特に、非常に役に立った」と語っている。ジョン・マケインも2007年に出した本の一章をニーバーに捧げている。大統領や上院議員だけではない。2002年に保守派のコラムニスト、デイビッド・ブルックスが「9.11以降ラインホールド・ニーバーが再び注目されていないとは驚きである」と書いて以来、神学者、歴史家、コメンテーター、政治家らの間でニーバー・リバイバルが起こっているのである。

新しく出たドキュメンタリー「アメリカの良心:ラインホールド・ニーバーの物語」はなぜニーバー・ルネサンスなるものが起こっているのかを捉え説明しようとしている。信仰に関する映画を数多く扱ってきたマーティン・ドブルマイアー(Martin Doblemeier)が監督だ。彼はクリスチャン・ポストのインタビューで、「当時ニーバーが提議した問題のすべては、今日の多くのアメリカ人にとって重要なテーマに見えるのです。こうした問題について熟考する際に、ニーバーは洞察力に富んだ指南書なのです」と語った。

ラインホールド・ニーバーは核の時代の神学者である。彼が知識人となったのは、第二次世界大戦の終わりにアメリカが二つの核爆弾を日本に落とした後だ。アルマゲドンや携挙(キリストが天から再臨する際に地上のキリスト教徒が不死の体になり空中に持ち上げられキリストに会うこと)や終末思想をとうの昔に捨てた主流派プロテスタントが国を動かしている中で、ニーバーは彼らに終末の可能性は否定できず、ひょっとしたら十分起こり得ることを信じてもらう必要があった。1940年代のはじめまでに、ニーバーはニューヨークのユニオン神学校の教授として神学者の間でよく知られるようになり、主にキリスト教関係の出版社に本を出していた。1948年までには、タイムマガジンの表紙を飾るようになり、本誌はニーバーをアメリカ人が直面している新たな苦境を理解する助けとなる人物だとして宣伝した。広島はニーバー神学の壮大なドラマにとってふさわしい世界をつくり、彼を一機に著名人にした。

罪、アイロニー、悲劇。これら三つの言葉はニーバーの本のページやスピーチで目につく。人類は原罪によって堕落し、神の恩寵によって贖(あがな)われた、とニーバーは書いている。しかし、贖いは常に不完全で、我々は聖書に書かれた[戒律を全て守るという]基準まで自分を高めることはできない。我々は自分たちの限界を受け入れることによってのみ、不完全な状態の中から最良のものを生み出すことができる。悪に満ちた世界において、我々は善を選ばなければならないが、罪を完全に拭い去ることはできないことを受け入れなければならない。我々の状況のアイロニーとは、我々は善なるもののために、悪だと思われる行動をしばしばとらなければならないということだ。

ジミー・カーターはニーバーの1932年の本『道徳的人間と非道徳的社会』をそらで引用することができた。この本には多くの人がニーバーの最も重要な考えの一つだと信じる考えが含まれている。それは、個々人は罪を克服できるかもしれないが、集団は罪を克服できない、という主張である。ニーバーは次のように書いている。「個々の人々は道徳的かもしれない」なぜなら彼らは「共感する能力と同族種を思いやる能力が本質的にそなわっている」からだ。しかし、他者に対し共感することは「人間社会や社会集団にとっては不可能ではないかもしれないが、より困難である」。人間は道徳的になりうるが、つねに非道徳的な社会で生きざるを得ないのである。

この本によって、ニーバーはそれまでの平和主義的な過去を断ち切った。コーネル・ウェストがドキュメンタリー「アメリカの良心」の中で言うように、「ラインホールド・ニーバーの偉大さの一部は、彼が高潔の名のもとにあえてそれまでの人気を失うリスクを選んだことにある」。ニーバーが暴力の肯定にキリスト教を使ったことに平和主義者が反対した際に、「ニーバーは彼らと向き合い、自分が学んだこういった考えや議論によって自分は考えを変えましたと彼らに述べたのだ」。

だがニーバーの論争は、決してこのような大人しいものではなかった。『道徳的人間と非道徳的社会』の出版の翌年に出た書評は、「この本をキリスト教的だということは、イエスの世界へのメッセージの核心を捻じ曲げるものである」と書いている。この評者がニーバーの本に反対したのは、ニーバーがキリスト教徒は集団を相手にするときにはしばしば暴力に頼ることも辞さなければならないと示唆したからである。出版後の1930年代、ニーバーと平和主義者は言葉の応酬を続けた。ニーバーは1940年に次のように書いている。「もし近代の教会が彼らの真の信仰を象徴していたなら」、「彼らは祭壇の十字架を取り払い、『悪について見ざる、聞かざる、言わざる』と人々に説く3匹の猿を代わりに用いるだろう。」

こうした下準備が第二次大戦後ニーバーをスポットライトのもとへ押し出した。彼の力に対する理解の呼びかけ(歴史家Healan Gastonはドキュメンタリーの中でこれを、ニーバーの「思想の占める主要なもので、彼の最も重要な遺産である」と語っている)は、1939年と1940年に彼のアメリカ人の仲間たちにとって、ナチスドイツや日本との戦争に参加するための預言者的な呼びかけとなった。ニーバーの考えでは、一方には攻撃的なファシスト勢力があり、もう一方には世間知らずで悪と戦うことを拒む平和主義者がいる。我々は賢く中道を選ばなければならない、と彼は説く。善のためには、悪を行わなければならない、と。

物事は彼にとって良い方向へ進んだ。アメリカが戦争に参加すると、ニーバーを批判していた平和主義者は沈黙させられた。ニーバーは効果的に[アメリカのプロテスタントに]それまでなかった正義の戦いという理論を生み出したのである。もしくは、歴史家デイビッド・ホリンガーが言うように、「ラインホールド・ニーバーは、アメリカのプロテスタントにとって戦争を安全なものにした」のである。この過程の中で、彼はアメリカが持つ力について最も辛辣な批判者の口を封じた。

しかしこれらの批判者は、彼ら自身預言者的な性質を持っていたのである。平和主義者のA. J. マスティとジョン・ヘインズ・ホームズ・ジュニアは軍の基地を世界中に設置することは、アメリカ人を次から次へと戦争へ巻き込むことになると警告していた。彼らはアメリカに帝国を手放すことを要求していた。彼らは徴兵制は国内の暮らしを軍事化すると忠告した。しかし、ほとんどの人は徴兵されることはなく、ニーバーの「現実主義的な」神学は、冷戦における新しい正統な神学となった。

1952年までに、ニーバーは名高い冷戦主義者となり、国務省の会議に招かれ、ソ連に戦う上で賢くそして謙虚に行動するように役人に助言をした。同年、彼はバラク・オバマのお気に入りの本の一つとなる『アメリカ史のアイロニー』を書いた。この本は、それまでと同じように、不完全な社会への警告を繰り返していたが、今やニーバーはアメリカの外交政策について書いていた。世界は不完全な場所である。そしてアメリカはソ連と戦う上で賢く行動したいならば、自分たちのイノセンスを捨てなければならない。コミュニストの脅威には断固として抵抗しなければならないが、傲慢さや聖戦[のような独善的な態度]に屈してはならないとニーバーは警告する。

この、彼の時代を超え我々の時代へと語りかける、先験的なニーバーは、「アメリカの良心」でインタビューを受けている多くの人々の回想の中にあらわれる。しかし、彼の同時代人は、彼に対し異なった見方を持った。1952年の朝鮮戦争の真っただ中、誰も改めてアメリカは世界における責任を果たさねばならないなどと説得される必要はなかった。ニーバーは聖戦[のような独善的な戦争]に対し警鐘を鳴らしていたが、アメリカはまさにそれを行っていた。そして、冷戦に対し神学的な承認を与えるなかで、ニーバーはまさに彼が警告していた狂信主義そのものを、[コミュニズムと平和主義の]責任ある中道だとして奨励してしまったのだった。

言い換えるならば、ニーバーは権力者に対して真実を言っていなかったのである。彼は、権力者たちは歴史において正しい側にいると安心させた。これについて最も情け容赦ない批判はノーム・チョムスキーから来た。彼はニーバーの思想を、「『権力に伴う責任と直面する』、より平易に言うなら、『犯罪にまみれた人生を送る』べく備えている人を慰める教義」と呼んだ。もちろん、ニーバーの思想とはこれ以上のものである。ニーバーはアメリカの持つ力に対する今日の最も鋭敏な批判者であるアンドリュー・ベースヴィッチやコーネル・ウェストらの思索を刺激し続けている。しかし、ニーバーの伝記を書いたリチャード・フォックスが言うように、ニーバーはアメリカの冷戦主義者が「混乱した(ニーバーの言葉を使うならば罪深い)世界において、政治的な行為者としての自分を信じ続けるのを助けたのである。危険は大きく、敵は狡猾で、責任とは危険を冒すことを意味する。道徳的な人物は強硬な手段を取らねばならないと、ニーバーは教えたのだ」。

1960年代から1970年代にかけてニーバーの人気は落ち始めた。神学校では、解放神学がニーバーのキリスト教的な現実主義にとってかわり、一般の評論家はアメリカがベトナムカンボジアラオスに軍事的圧力をかけることを支持することに懸念を示し始めた。何百万の主流派のプロテスタントは教会に行くのをやめ、福音主義者はニーバーの自由神学を気にかけなかった。ニーバーは彼の聴衆を失った。

1980年代までに、学者(彼らはそれまで全くニーバーを真剣に取り扱うことはなかった)がニーバーの思想のまさに基盤を解体しはじめた。ニーバーは人間の罪深い本質について語っている。しかし、学者たちは、「人間の本質」など虚構だということを示した。世界は急進的な多元主義である。一つの普遍的な人格というものはなく、文化や国家やジェンダーによって分けられた多様な人々がいる。そして、私たちにとって自然なことのように見えるものは大抵歴史や政治の力によって「構築された」ものなだ。ニーバーの考えは、良くて見当違いのように見え始めたのだ。

2001年の9・11という悲劇的な出来事によって、ニーバーは蘇った。罪、アイロニー、悲劇といった言葉がアメリカ人の語彙に戻ってきた。テロに対し戦う人々―オバマはその中で最も有名である―はニーバーに目を向けた。しかし、ニーバーの再来は疑問を呈する:なぜ核の時代に人気の絶頂を迎えた神学者が、テロの時代に生きる多くの人々にはっきりと語りかけるのか?

「もしほぼ全てのインタビューを受けた人々を繋ぐ糸を探すとするならば、彼らはみな何らかの形の権力や影響力を持つ仕事をしている。」と「アメリカの良心」の手引書を書いたジェレミー・サベーラは語る。「彼らはみな何らかの種類の権力や影響力を取引している。そしてニーバーは、そうした権力や影響力を使う苦境は、ひどい欠点のある人間が罪と戦っている状態なのだと、じっくり考える上で素晴らしい助けとなっている。」

これらの権力者の一人は、FBIの長官のジェイムズ・コーメイである。彼は自分のインスタグラムやツイッターで「ラインホールド・ニーバー」という名前を使っている。1982年にコーメイは学部時代の卒論でニーバーの公的行動への呼びかけについて書いた。「ニーバーは『道徳的人間と非道徳的社会』で象牙の塔に座っているだけでは不十分だと言っている」と、ニューヨークマガジンのインタビューで警察機関へすすむ決断をした経緯を振り返り語っている。彼の息子の死や、9・11、そしてホロコーストのことを思い返し、コーメイは「悪が蔓延することを許さないことは、人間としての我々の義務である。悪に勝たせてはいけないのだ」と主張した。

コーメイは2002年の1月、2001年に起こった9・11の悲劇のわずか数か月後に、ニューヨーク市の連邦検事になった。ニューヨークに放射能汚染爆弾を投下する計画を立てた容疑がかけられたジョーズ・パディラには弁護士をつける権利はないと彼は主張した。アメリカで生まれたパディラは敵の戦闘員とみなされ三年半軍の刑務所で過ごした。2004年にコーメイはブッシュ政権の司法副長官となり、CIAの水責めやその他の拷問の使用を許可した。彼はFBIの長官として、イスラム教のアメリカ人を監視し、国内でのテロを起訴し、テロリストになりそうな人々がアメリカに来るのを阻むプログラムの責任者をつとめている。

コーメイやオバマやその他の権力者たちは、ニーバーが謙虚さや注意深さをもって行動するように主張したから、ニーバーを読んでいるのだろうか?それとも、ニーバーが道徳的な人は強硬な手段も取らねばならないと主張しているからか?もっともありえそうな答えは、両方だ。そして、それは小さな問題ではすまないことがわかるだろう。 

Gene Zubovich is a postdoctoral fellow at the John C. Danforth Center on Religion and Politics. Follow him @genezubovich.