アメリカ宗教事情

英語の記事を訳しています

ドナルド・トランプと好戦的な福音主義の男性性

以下の日本語は2017年1月17日にKristin Du MezがReligion & Politicsに投稿した下記リンク記事の日本語訳です。

Donald Trump and Militant Evangelical Masculinity | Religion & Politics

ドナルド・トランプが大統領就任の宣誓を準備をする中、多くの白人福音主義者は祝杯を挙げようとしていることでしょう。しかし、「家族の価値(Family Value)」を主張する保守派がトランプを支持し続けているという事実は、福音主義者たちを含む多くの人々を驚かせてきました。

トランプというのは結局、全国テレビで彼の男らしさを自慢し、自分の選挙集会で暴力を掻き立て、女性を攻撃したことを自慢した男なのです。彼は、アイオワにあるキリスト教大学――まさに私の母校です――の教会で話し、「5thアヴェニューの真ん中に立って誰かを撃っ」ても票を失わずにいることができると主張した男なのです。

疑いもなく、トランプの行動は、この選挙で勝利の鍵となった選挙民である白人福音主義の81%が、トランプに票を入れるのを少しも思い留まらせることはありませんでした。

ええ確かに大統領選挙には、信教の自由が脅かされることへの恐怖と最高裁判事の選出があったことを考慮に入れる必要があります。それに、[トランプに票を入れないということは]共和党との長い連帯関係とも戦わなければならないということでした。しかし、そうだとしても、どうして「モラル・マジョリティ(道徳的多数派)」と自称する人たちが、自分の残虐さを誇りに思っているような候補者を受け入れることができたのでしょうか。

実のところ、多くの福音主義者たちはかなり昔に、苦しむ僕としてのイエスを、彼らが思っている以上によりトランプに近いようなイメージに置き換えていたのです。卑下することを特権とし最も価値なきもの高める信仰を、優しさは臆病者の領域だと嘲笑する信仰と取り換えていたのです。福音のイエスをマチズモのアイドルで置き換えたあとで、多くの人がトランプ自身を国家の救世主だと思ったのも無理のないことです。

実際、白人福音主義者のトランプ支持は、彼らが何十年にもわたって好戦的な男性性を容認してきたことが成就したのだとみることができるでしょう。その男性性とは、家父長的な権威を信奉し、国内外での無情な力の誇示を容認し、保守白人福音主義者の政治的・社会的な世界観において根幹をなすものです。結局、多くの福音主義者は彼らの信仰にかかわらずトランプに票を入れたのではなく、彼らの信仰ゆえに票を入れたのです。

 

このイデオロギーの発端は、福音主義者が政治や文化について新しい主張をし始めた1970年代に遡ることができます。「家族の価値」の問題に関して人々を動員すると同時に、男性性と女性性を定義することが彼らの中心的な課題でした。ジェイムス・ドブソンは、最も初期の影響力を持ったこうした試みの提唱者の一人です。この心理学者は1970年にDare to Disciplineという本で有名になりますが、5年後にジェンダーイデオロギーについて明確な意見を表明し始めました。それによると、男性と女性は「生化学的に、解剖学的に、感情的に」異なるというのです。すなわち、男性は「自然の中で狩猟や漁やハイキングをする」のが好きで、それに対し女性は「家にとどまり彼らを待つ」のを好むというものです。より重要なのは、「男性は尊敬されることで自分の自尊感情を得るのに対し、女性は愛されることで自分の価値を感じる」という主張でしょう。

ドブソンは1980年に書かれた文章では、フェミニストが「全ての伝統的に男性的なもの」に疑問を投げかけ、「由緒ある庇護者と被庇護者という役割」に干渉し、さらに男性的なリーダーシップを「マッチョ」と侮辱したとして非難しました。彼はこれをジェンダーの危機だけでなく国家の安全に対する脅威だと見ていました。国家のためには「軍隊へ招集」することが必要である、つまりフェミニストの「『男らしさ』への一斉攻撃」を前に「ユダヤ・キリスト教的な男性性」を再表明することが必要だと説いたのです。

変化するジェンダー役割がいかに国家を危険にさらしうるかを理解するには、冷戦政治の文脈やベトナム戦争の背景の中に、福音主義キリスト教の政治化を位置づける必要があります。

福音主義は強硬に共産主義に反対しましたが、その理由は数多くあり、共産主義者は反アメリカ的で、反神で、神に与えられた権利と家族の健全性を脅かすからというものでした。共産主義者の脅威を撃退するために、強い軍隊が必要である。そして強い軍には、強い男が不可欠だったのです。

しかし、新しい世代は不安の種を生みました。長い髪の毛で花柄のシャツを見せびらかしている若い男たちが、徴兵を避け、権威者を避け、世界的な共産主義の脅威からアメリカを守るという義務を回避している。ベトナムの時代は、アメリカの福音主義者と軍の関係にとって決定的な瞬間となったのでしょう。

1940年代と1950年代には、福音主義者は軍隊を若い男にとって道徳的廃頽の根源だとしてしばしば疑いの目を持ってみていました。しかし、[宗教史家である]アン・ラブランドが主張するように、ベトナム戦争中にアメリカの軍を支持した福音主義者たちは、軍そのものを高く(そしてしばしば無批判に)評価するようになったのです。

こうした風潮の中で、ジェンダーは決して純粋な国内だけの問題ではありませんでした。1970年代と1980年代のはじめに、福音主義者が男女平等憲法修正条項 [ERA: Equal Rights Amendment: 性差によって権利の平等が侵害されないことを求めたアメリカ合衆国憲法に対する修正条項で1923年に議会に提案され、1972年になって両院を通過したものの、必要な州の批准を得られずに1982年に不成立となった]に反対したことはこれを裏付けていると[歴史家の]ドナルド・マシューやジェーン・デ・ハートは言っています。福音主義者にとってERAは、ジェンダーは神聖で、この曖昧で流動的な世界において神がくれた確かなものであるという保守的なキリスト教の世界観のまさに根幹に挑戦していました。ERAへの反対はすぐさま彼らの「家族の価値」政策における主要な項目になりました。しかし、ERAはまた、国家安全保障の問題でもあったのです。福音主義者たちは、ERAは女性に「男性のように」――競争的で、キャリア志向で、性的に乱れる――ようになるよう強いることで、また最も驚くことに、戦闘において武器を持たせることによって、彼女たちの女らしさを破壊するのだと主張しました。その結果、ERAは女性を「男性化」させるだけではなく、供給と保護という男性の義務を奪い、アメリカの防衛を脆弱なものにしてしまうだろうと[説きました]。

ドブソンのような福音主義者は、道徳的な絶対性を回復させ、「キリスト教的文明」を再び打ち立てることで、蔓延する混乱の波から引き返そうと、[こうした危機に]明解な言葉で応じました。明確なジェンダー役割を定義し守ることはこうした試みの中心にあり、世俗主義者やフェミニスト、そしてその他リベラルに対抗する明確なアイデンティティを保守的な福音主義者に与えました。

しかし、1980年代の終わりまでに、彼らの大義が崩壊してしまったと言えます。ソ連の崩壊と冷戦の急な決着は、彼らが想定していた自分たちの世界における立ち位置をひっくり返し、経済的な状況は男性たちが供給者としての役割を果たすことを難しくしました。そして、社会においてフェミニズムがより広く一般的に受け入れられるようになったことは、福音主義者にとって、少々の秩序の乱れではなく「新しい世界秩序」を経験することを意味していました。

新しくなった「男性性の危機」を特定すると、福音主義者たちは大変な人気を博したプロミス・キーパームーブメントを1990年に立ち上げることでそれに答えようとしました。ドブソンによって推進されたこの運動は、あっという間に広まりました。絶頂期の1997年には、プロミス・キーパーは80万人以上の男性をワシントンDCの全国集会に動員しました。不安定な時代を思い返し、プロミス・キーパーは、何かが欠けているように見える近代的な「柔和な」男性性と、もはや時代遅れだと恐れる「マッチョ」な男性性、どちらとも異なる新しいキリスト教的男性性を求めました。彼らの解決策とは、「優しい戦士」の原型でした。

 スティーブ・ファーラ―、ゴードン・ダルビー、スチュー・ウェーバーのような作家――全員白人福音主義者の男性――はこの「優しい戦士」のモチーフのパイオニアでした。重要なことに、三人ともベトナムの中に男らしいアイデンティティの源泉を見出しました。ファーラ―は1990年の『ポイント・マン[=軍隊の戦闘に立つ兵士]』の中で、女性化から息子を守る父親の仕事を、ベトナムの危険の中彼の軍を率いた「ポイント・マン」と照らし合わせました。ダルビーは1998年の『漢の魂の癒し(Healing the Masculine Soul)』で、海軍将校の息子であるダルビーが、ピース・コープに加わり、フェミニズムの支持者になったことで、男性性への青写真と同様に、戦争の英雄のイメージをも軽視するようになったことを認めています。ようやく後になって彼は男性性には「戦士が必要だ」と結論づけました。そして、ウェーバー(旧グリーン・ベレット)は、1993年の『優しい戦士(Tender Warrior)』で、ベトナムの恐ろしさの描写から始め、いかに神が男性を供給者、保護者、そして戦士となるように創られたかを説明しました。

運動で繰り返された言葉の中で、ウェーバーは神自身は間違いなく「[旧約・新約]両方の聖書の戦士」であると主張しました。「優しく、弱々しく、温和なイエス」は忘れよう、イエスは「究極の男」なのであると。

 

しかし、民主党大統領であるビル・クリントンが「去勢された」平和維持運動に軍隊を派遣する中、戦闘における女性や軍におけるゲイに関する議論が持ち上がった際に、危機はより深まりました。まもなく、福音主義の男性性についての新しい本のリストがあらわれ、「女性化」された文化の中でどのようにふさわしく男性的な息子を育てるか指示を与えました。「優しさ」についてのいかなるリップサービスも捨て、これらの本は臆面もなく攻撃的で男性ホルモンに突き動かされるような男性性を推進したのでした。

『近代の騎士を育てよう(Raising a Modern-Day Knight)』(ドブソンのフォーカス・オン・ザ・ファミリーによって1997年に出版)の中で、ロバート・ルイスは、男性が「近代の世俗的なフェミニスト文化によって男らしさをひん剥かれた」文化の中で、少年が「聖書に根差した」男性性を手に入れるための詳細な手引きを示しています。「雄々しい男性性」の力強いシンボルで満ちた、「騎士の時代」に目を向け、ルイスは高価なステーキのディナーと、「聖書やショットガンやバッジ」などの「素晴らしい価値」のシンボルによって記念するような、手の込んだ男性性の祝典を催すようにアドバイスをしています。

アメリカにおける「少年に対する戦争」への批判の声が大きくなる中、2001年にドブソン自身も批判を始めました。ドブソンは『少年の子育て(Bringing up Boys)』において、「男性性のまさに根幹」を攻撃する「少ないがうるさいフェミニスト連中」を再び批判しました。そして、少年をより少女のように、男をより女のように「女々しく、去勢され、弱虫に」しようとしたがる「フェミニストとその他社会派リベラル」をばかにしました。『少年の子育て』は読者に受け入れられ、すぐさま100万部以上を売り上げました。

また2001年には、ダグラス・ウィルソンは『未来の男たち(Future Men)』で少年たちは戦士になるように育てられなければいけないと力説しました。ウィルソンの「男性性の定義」の中核をなしているのは、支配という概念でした。つまり、アダムのようにすべての男たちは「世界に支配権をふるうために創られた」のだという考えです。この目的のためには「少年は木でできた剣やプラスチックの銃で遊ぶことが絶対的に不可欠」であり、「若い少年たちは、明らかに本物の銃器の使用の仕方を訓練されるべきだ」というのです。さらに、ウィルソンは「拳による殴り合いの神学」を訴えました。

おそらく、最も影響力をもった福音主義の本は2001年に出版された、ジョン・エルドリッジの『野生を心に(Wild at Heart)』でしょう。彼以前の作者によって表明されたテーマを広げ、エルドリッジは男と女の違いというのは魂のレベルにおいてあると主張しました。そして、エルドリッジによれば、男性性とは徹底的な軍事主義でした。つまり、神は男たちを「戦うべき戦闘、冒険的な人生、そして救い出すべき美人」を切望するようにお創りになられたというのです。

[エルドリッジが書く]女性の役割は受動的なものでした。女性は自分のために戦われることに憧れを抱く。女性はなんらかの「野生を心に」持っているけれども、その「本質は女らしいもので、獰猛というよりは誘惑的」だと。

しかし、エルドリッジは、社会は男性に対し混乱したメッセージを与えているといいます。「これまで三十年かけて男性性をより繊細で安全で扱いやすく、そして女らしいものに再定義したあとで、今になって男らしくないと男性を叱るんです。」「男性性の危機」は教会と社会に蔓延しています。なぜなら、「戦士の文化」ーー「男性が男として戦うことを学べる場所」ーーはもはや存在していないからです。

「もし男性は神の似姿となるよう創られたと私たちが信じているならば」、私はたちは「神は戦士だった」ということを思い出さなければならない、とエルドリッジは書いています。攻撃性は「男らしさのデザインの一部」なのです。つまり、男たちは「そのように作り込まれている」のだと。男性をなだめようとする試みは、彼らをただ去勢するだけなのです。「もしあなたがより安全で大人しい動物が欲しいなら、答えは簡単です。去勢すればいいのです」。そう、「男は危険なものなのです」。しかし、彼らを危険なものにするその強さこそが、男性たちをまた英雄にもするのです、と。

 

『野生を心に』が世に出てほんの数か月後に、アメリカをテロリストが襲撃しました。一夜にしてエルドリッジの「男らしい」英雄への訴えかけは、深刻で広範な文化的な反響を生み出しました。

福音主義の大統領ジョージ・W・ブッシュによって作り上げられた「テロとの戦い」についての道徳的確信は、不意に冷戦直後の倦怠感にとって代わりました。またしても、アメリカは、国内外で国を守る強く英雄的な男を求めました。

福音主義者の多くは冷戦のジェンダー構造から決してそれることはありませんでしたが、こうした新しい状況に万全の状態で臨みました。「9月11日に二つの飛行機がツインタワーに激突したとき、私たちが突如必要としたのは男らしい男性でした」と、2005年の『King Me』でファーラ―は書きました。「女化した男たちは燃え盛る建物に入っていきません。けれど、男らしい男たちはします。だから神は男を男らしくなるようにお創りになったのです」。また、明確な言葉で、彼は以前の「優しい戦士」のモチーフを否定しました。「今日のトレンドは『優しい』ほうを優先して、『戦士』のほうは二の次にしています」。しかし、「第一線において優しさなど必要ないのです」と。

戦士のような神のイメージに男性は創られていると主張する著作に、どっぷり使った福音主義者たちが、晩年のジェリー・ファルウェルが2004年の説教「神は戦争を支持している」で示した感情を、どれだけ受け入れやすいようになっていたか想像するのは難しくないでしょう。実際、研究によれば、伝統的な福音主義者は他のアメリカ人よりも、アメリカが先制して戦争を始めることを受けいれやすく、テロリズムに対する軍事行動を支持しやすく、拷問を大目にみやすいということが分かっています。

この好戦的な男性性というブランドはまた、トランプの人格の問題に関して多くの福音主義者たちが怒らなかった理由を説明するのに役立ちます。ドブソン自身も、最も影響力がある福音主義者のトランプサポーターの一人であり、他のキリスト教仲間に「彼に理解を示すよう」に呼びかけていました。もっと言えば、ダラスにある第一バプテスト教会の牧師でありトランプの熱烈な支持者である、聖職者ロバート・ジェフレスは、型にはまらない候補者を支持する理由についてこう語りました。「私はあの[大統領という]役割に、見つかりうる限りでもっとも意地が悪く屈強なクソ野郎を求めている。そして、他の福音主義者たちも同じ気持ちだと思う。」

しかしながら、不吉なことに、暴力についてただ話すことと暴力を行使することは紙一重です。選挙の後一か月以内に、28歳の白人男性が軍隊様式のアサルトライフルでDCのピザ屋を襲撃しました。ヒラリー・クリントンと結びつきのある子供の性奴隷を扱う組織(偽のニュース報道によるでっち上げだと後でわかった)を探していたと彼は述べました。彼は逮捕後のニューヨークタイムズのインタビューで、冷たく彼のお気に入りの本の一つである『野生を心に』を引用しました。

2016年の選挙でのジェンダーの役割について、ほとんどの観察者はクリントンの魅力――もしくは魅力のなさ――について入念な調査をしました。しかし、より明らかになったのは、トランプの男性ホルモンたぎる男性性というのが、目立って福音主義が支持してきた男性性一致していたということでした。何が強い指導者を作るのか?男らしい(白人の)男である。では彼の下品さや不信仰さ、大言壮語などはいいのか?性的暴行さえも?いやぁ、男ってしょうがないもの。

思い返せば、こうした欠点だと思われていたことに注意を向けたことは、クリントンのキャンペーンにおいて致命的な間違いだったのかもしれません。なぜなら、こうした類の好戦的な男性性を好む人々にとって、そのような性格の特徴は逆説的にトランプが大統領職に向いているということを示していたからです。

福音主義者がいよいよ苦境に立たされ、いやむしろ虐げられたと感じていたときにトランプは現れました。ゲイマリッジ、トランスジェンダーのトイレに関する法律、ハイド修正条項[1977年の低所得者に対する医療保険制度から、レイプや近親相姦以外の理由での中絶への費用を払うことを禁じた法律]、そして避妊の義務づけなどに見られる文化の変容の中で、ジェンダーに関わる問題は、彼らの被害者意識の中心にありました。テロリズムの脅威が大きくそびえたち、アメリカの力が以前のようなものではなくなり、白人福音主義者の3分の2近くがかつて力強い国が今や「柔和で女らしく」なりすぎてしまったという不安を抱いていました。

ドナルド・トランプの中に、彼らは今まで探し続けていた指導者を見出したのでした。